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2013年9月

2013年9月 7日 (土)

年代ごろ合わせ

 受験時代に覚えた下記年代のごろ合わせを、今でも覚えていました。語呂が良いと忘れないのですね。

①645年 大化の改新ムシゴはん。

②794年 ナクヨうぐいす平安京

③894年 ハクシに戻す遣唐使

④1192年 イイクニ作ろう鎌倉幕府

⑤1333年 ヒトミナサンザン鎌倉幕府滅亡

⑥1467年 ヒトノヨムナシ応仁の乱

 他に語呂合わせが良くて覚えやすい年代を書き出してみました。

①607年 ブレイナ小野妹子の遣隋使

②663年 ムロンザンぱい白村江の戦い

③672年 ブナンニはいかない壬申の乱

④710年 ナント(南都)立派な平城京

⑤720年 ナニオおいても日本書紀

⑥743年 返すのナシサ墾田永年私財法

⑦1156年 平氏にとってイイコロ保元の乱

⑧1281年 ヒトニワイえない二度目の元寇(文永・弘安の役)

⑨1543年 ジュウゴヨサンで作ります鉄砲伝来

東西の本願寺

 浄土真宗は親鸞を開祖とし、鎌倉時代初期に生まれました。室町時代後期に登場した第八代蓮如(れんにょ)の布教により信者を増やした浄土真宗は一向宗とも呼ばれ、大阪の石山本願寺は一大勢力となりました。石山本願寺を拠点に織田信長と合戦したのは第十一代顕如(けんにょ)でした。顕如の嫡男である教如(きょうにょ)は、後を継ぎ十二代法主となりましたが、顕如の末子である准如(じゅんにょ)を後継者に指名した遺言状を秀吉が裁定し、准如が法主となりました。准如の西本願寺は秀吉から与えられた広大な土地に1591年に建てたもので、不本意な形で法主の地位を追われた教如は、家康から京の地に寺地を贈られ1602年に東本願寺を建て、本願寺が西と東に分断されました。徳川家康は、若き時代に一向一揆に苦しめられた経験があったため、両者を対抗させ脅威を分散させたと言われています。写真は、京都の東本願寺です。

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足利義満と金閣寺

 足利義満は、天皇家でないのに歴史上唯一天皇になろうとした将軍と言われています。金閣寺の一階は寝殿造りで、二階は武家造、三階は中国風の禅宗仏殿造となっています。義満は中国皇帝に日本国王であることを認められており、金閣は、義満が公家(一階)社会と武家(二階)社会という階層の上に立つ最上位の王者であることを具現化したものであると考えられています。金閣寺の屋根には、聖徳の天子の兆しとして現れるという想像上の鳥の鳳凰の飾りがあります。

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何故武士が生まれたのか

 日本に武士が生まれたのは、権力争いをしていた天皇家と藤原氏がともに穢れに満ちた武力を手放したからです。日本の統治者である天皇は、大和朝廷誕生当初から軍隊を持っており、飛鳥時代、奈良時代、平安時代初期まで天皇は軍隊を持っていました。その頃まで日本には、大和朝廷から見た異民族である「夷(えびす)」が存在しており、第二代の征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北地方を征服し、外敵がいなくなると軍隊をなくしてしまったのです。

平安中期には軍隊に当たる兵部省で働く人がいない状態となったのです。中央には特別に検非違使が置かれ都の治安は保たれましたが、地方は無法地帯となっていきました。それに対抗するために、荘園領主や有力農民が自衛のため武装し武装集団が生まれました。臣籍降下した源氏や平氏が地方の武士達をまとめていくと共に、平安京の治安を護り、天皇を守護する人たちの中から平清盛が出て武士の力が認められ、その後の武家社会へと続いていきます。写真は、京都六波羅蜜寺の平清盛像です。不敵に笑っているように見えました。

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院政

藤原道長の息子頼道は、藤原の娘に皇子を生ませることが出来ませんでした。藤原氏の外孫でない後三条天皇は、1069年に永久の荘園整理令を出して、不正な荘園を天皇家の領に加え基盤を強化していきます。このような整理令は902年にも醍醐天皇によって出されましたが、摂関政治の全盛期であり藤原氏が抵抗したので成功しませんでした。

後三条天皇は藤原摂関家に勢力を抑えるために、藤原系の息子白河天皇に譲位する代わりに、次の天皇は源氏の母親から生まれた弟に譲るよう命じ、上皇となって院政を敷いたのでしたが、譲位後半年で病死してしまいます。父後三条天皇が指名した白河天皇の弟の皇太子が病死したため、幼少の息子堀河天皇に譲位し上皇となり院政を敷き藤原系の天皇が続くことになったのです。ところが、堀河天皇の母親は源氏から藤原家に養女に出ていたため、後三条天皇が積極的に登用していた源氏の政界進出が目覚しく、荘園整理令のため藤原摂関家の財政的基盤が弱まり、国司に任命されて実際に現地に赴任する中流以下の貴族である受領層の後三条天皇の親政支持により藤原摂関体制が崩壊したのでした。

お茶

 日本でのお茶は、奈良時代に聖武天皇が、僧侶の慰労のため茶を与えていたことに始まります。平安時代になると比叡山を開いた最澄が茶の種をもたらし、僧永忠(えいちゅう)は、その成育した木から茶を精製し嵯峨天皇に献上しました。日本最古の茶畑は、比叡山坂本の茶園で、この当時の茶は、団茶といって茶葉をいったん臼でひいて粉にし、それを固めたものでした。朝廷の衰えとともに、喫茶の習慣は一時途絶えましたが、これを復活したのが鎌倉時代の禅僧で「喫茶養生記」の著者栄西です。栄西が勧めたのは、今と同じ抹茶で、この栄西が日本に伝えた茶の種子を譲り受けたのが、明恵です。明恵は自分の寺である高山寺にその種をまき、それ以降、この高山寺周辺で収穫される茶が「本茶」と呼ばれるようになりました。

日本人の宗教

日本人は世の中が唯一神によって造られたのではなく、「八百万(やおよろず)の神々」というように、あらゆるところに神々がいて、八百万の神々が話し合いで物事を決めると考えたのです。聖徳太子の17条の憲法第一条と最後の条に示された、話し合い絶対主義による和の精神は、日本的な宗教信仰の源流だと思います。

 織田信長は、宗教を弾圧したのではなく、宗教が政治に関与することを断固として排除したのです。その強烈な意志行動のおかげで、日本人は宗教戦争をしなくなったという見方もできます。日本での戦争は、武士団同士の国取りの戦いであり、非戦闘員を対象にしなかったため、果てし無く続く殺戮の負の連鎖に陥らなかったのだと思います。また、戦国時代の強力な武士団や江戸時代の鎖国は、キリスト教を先兵とした列強からの侵略を防ぎ、日本の独自性を守ることに役だったのです。

日本人は、外国人に宗派を聞かれて無宗教と答える人が多いようですが、日本人の宗教は自然と融合した日本独特の神道だと思います。最近続いた大地震による倒壊・火災・津波などの大きな被害を受けても、その自然の猛威を受け入れ力強く生きていく人々が祈りを捧げる姿に心打たれました。神から授けられた食物を大事に残すことなく食べ切り、庭の大きな木には神が宿ると考え、切り倒すことなく建物の配置を考えるのが日本人ではないでしょうか。

御霊信仰

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、天災や疫病、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人の怨霊の祟りとして恐れ、御霊を鎮めることにより平穏を回復しようとする信仰です。光仁天皇の皇子の早良親王(さわら)は785年に藤原種継暗殺事件で廃嫡され淡路島に流される途中で絶食して亡くなりました。その後、疫病の流行や不吉な事が相次いだため、親王の祟りと恐れ、淡路から大和に移葬し崇道天皇と追号し、その怨霊を鎮めるために京都御霊社が創祀されました。菅原道真や平将門、崇徳上皇など多くが祟ると恐れられ鎮魂されました。

崇徳上皇の祟り

鳥羽天皇の皇后が白河法皇と密通して生まれた崇徳天皇は、父の鳥羽天皇に嫌われ若くして譲位させられ、自分の子供に天皇位を継がせる事が出来ませんでした。崇徳上皇は、鳥羽法皇が亡くなると政権奪回のクーデターである保元の乱を1156年に起こしますが、失敗し讃岐に流されてしまいます。流罪地の讃岐で反省し写経した経を都に送ったのですが送り返され「日本の大魔王となって、天皇家を没落させ平民をこの国の王にしてやる。この経を魔道に捧げる。」と自分の舌を食い千切って流れた血で経に呪いの誓文を書き海に沈め讃岐で憤死します。

その後、平清盛が大きな権力を得て、源頼朝によって鎌倉幕府が成立するのです。鎌倉幕府の源氏が三代で滅びた際、後鳥羽上皇は政権を取り戻す好機と兵を挙げたが失敗し(1221年承久の変)、臣下である武士によって隠岐に島流しになるのです。ここに至って崇徳上皇の呪いは現実のものとなり、天皇家から武士に政権が移るのです。この怨霊伝説は明治維新まで続き、明治天皇の即位の礼の直前に天皇の勅使が讃岐に派遣され崇徳上皇の御霊を京都へ帰還させて祀りました。崇徳上皇の怨霊は、菅原道真と平将門とを合わせて日本三大怨霊と言われています。

「崇」のおくりなの天皇

 第124代の昭和天皇まで、天皇が崩御されると諡号が付けられます。その中で名前にあがめる「崇」が付いた4人の天皇が、第10代崇神天皇、第32代崇峻天皇、第75代崇徳天皇、南北朝時代の北朝の崇光天皇です。また、「神」が付いた3人の天皇が、初代神武天皇、第15代応神天皇、第10代崇神天皇です。偉大な天皇に「神」、無念を抱えた天皇に「崇」の諡号が付けられたようです。

 第10代崇神天皇は、初代神武天皇と同じように「初めて造った国を統治される天皇」と呼ばれたことより、大和政権を最初に確立した大王と考えられている偉大な天皇です。この偉大な天皇の「崇」という諡号を、蘇我馬子に暗殺された第32代崇峻天皇や保元の乱に敗れ配流先の讃岐で没した第75代崇徳天皇、南朝により廃された北朝の崇光天皇に付け、無念を抱えた天皇の怨霊を祀ったのではないでしょうか。

遷都と祟り

藤原不比等の4人の息子は、異母妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てようとしました。これに反対した有力な皇位継承者であった長屋王は、729年に藤原四兄弟に陥れられ死に追いやられます。(長屋王の変)その後、藤原四兄弟が天然痘で死亡し長屋王の祟りと噂され、聖武天皇も恐れおののきます。猛威を振るう疫病や九州一帯を巻き込んだ藤原広嗣の乱の最中の740年に恭仁京への遷都を敢行し、仏教を国家と国土を安泰に導く鎮護国家の教えと位置付け、741年に国分寺建立の詔、743年に奈良の大仏造立の詔を発し、745年に平城京に還都し戻ってきました。

長岡京造営の責任者藤原種継の暗殺事件の首謀者とされた早良親王(さわら)が、785年に淡路へ配流される途中で絶命しました。桓武天皇は、実弟の早良親王の祟りから逃れるようにして長岡京から平安京へ遷都したのです。

山の辺の道

 飛鳥から平城京への交通路として利用された日本最古の道のひとつで、山の辺の道の内、奈良の桜井駅から天理駅までの約18kmをたどりました。大神神社や崇神天皇陵、石上神社など多くの神社や古墳があり、のどかな農道や土を踏みしめての山道に心が洗われるようでした。天理駅周辺は天理教の施設が集中しており独特の制服を着た学生に少し驚きました。1日で長谷寺・室生寺、山の辺の道を廻ったので、天理駅に着いた時にはさすがに疲れました。

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山の辺の道と並行して走るJR桜井線の巻向駅周辺には、ヤマト政権誕生の地である纏向遺跡(まきむく)が広がっています。卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳(はしはか)や三角縁神獣鏡が大量に出土した黒塚古墳とその展示館は、ぜひ訪れてください。こちらから望む三輪山も神秘的です。

源氏

 平安時代は、天皇親政の体制にありましたが、平安中期以降は藤原一族が摂政・関白となって政治の実権を天皇家から奪っていきました。第52代の嵯峨天皇は、母親の身分が低い多くの子供たちを「源」という姓を与え臣籍降下させて、臣下として盛んに登用し、たちまちのうちに藤原一族に対抗する有力な氏族にのしあがらせたのです。武家の源氏は清和源氏と呼ばれ、第56代清和天皇の子孫です。

鉄拳の文字と漢字の使用

 2つの古墳から出土した鉄剣が、雄略天皇の大和王権の勢力が全国に及んでいたことを示しています。埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣(さいたま史跡の博物館で常時展示)には、115の金文字が象嵌(ぞうがん)されており、「西暦471年にワカタケル大王の天下統治を助けた記念に作った」旨の日本最古の漢字が刻まれています。同時代の熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀(東京国立博物館蔵、特別展などで展示)にも、銀象嵌で74文字が刻まれており、「天下を治めるワカタケル大王に仕えた事」が残されています。日本で書かれた最古の漢字が、歴史を明確に伝えてくれるのです。

奈良県の石上神宮(いそのかみ)に伝わる七支刀(しちしとう)は、369年に百済王の王子が倭王に贈ったもので、刃の表裏に金象嵌で61文字の銘文が刻まれています。こちらは、石上神宮を訪れた際、非公開との事で残念に思っていましたが、2013年春の東京国立博物館の大神社展で拝観でき大感激でした。

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同様に、外国で刻まれた文字で日本に残るものとしては、57年に後漢の光武帝から贈られた漢委奴国王の金印(福岡市博物館で常時展示)が有名ですが、さらに古いものが有りました。佐賀県の吉野ケ里遺跡の甕棺墓から出土した紀元前の中国製銅鏡に刻まれた漢字で、「長い間会えなくても、いつまでも忘れないで」の意味の八文字が残されています。大陸や半島から多くの人が渡来したにもかかわらず、五世紀まで漢字が日本で使われなかったのが不思議です。全ての言葉には霊力が有り、ある言葉を口にすると現実となると信じられていた「言霊思想」が、文字文化の流入を阻んだとも言われています。

古墳の埋葬者が分かれば古代日本が分かる

 古代古墳には墓標などが無いので、埋葬者を特定できないと言われてきましたが、最近の画像解析研究により特定できるようになったようです。驚きです。多くの歴史家や歴史作家が陵主を推定するために、多くの時間を費やしてきましたが、「画像解析によって判明した古墳墓碑」平成255月初版、池田仁三著書によると、多くの古墳の主が特定されています。

 仁徳天皇陵は大仙陵と併記する必要が無くなり、高松塚古墳は天武天皇の忍壁(おさかべ)親王で、古墳内の色鮮やかな人物壁画は天智天皇と天武天皇の妃・皇子・皇女たちでした。多くの豪華な副葬品が発見された藤ノ木古墳の二人の埋葬者は敏達(びだつ)天皇の妃と皇子、四神図で有名なキトラ古墳は天武天皇の皇女でした。

 さらにさかのぼると、装飾古墳で有名な熊本県山鹿市のチブサン古墳は紀元前197年没の天照大神、福岡県八女市の八女童男山1号は紀元前180年没の徐福の墓、佐賀県の吉野ケ里の墳丘墓に紀元前183年没の墓主が見えるなどとなっています。

 これら埋葬者を年代順に並べると、北部九州に栄えた文明が東進し大和王権を作り、中国歴史書の日本の邪馬台国は大和に存在し、卑弥呼は箸墓古墳に埋葬されたことになり、邪馬台国は近畿説で決着です。また、福岡県志賀島から出土した金印は、西暦57年に後漢の光武帝から倭に贈られたものですが、側面に第三代安寧(あんねい)天皇の王子の名前が画像解析により浮き出てきました。安寧天皇の御陵は大和にあり、王子の墓碑は佐賀県の一貴山銚子塚で多く見つかっているので、この時代には大和と北部九州の強固な関係が有ったことになります。

この本に書かれている事が事実と認定されれば、歴史教科書が大幅に書き換えられるでしょう。

藤原氏

藤原氏は、乙巳(いっし)の変とその後の大化の改新に功績の有った中臣鎌足が藤原姓を天智天皇より賜ったことに始まります。鎌足の次男不比等は娘明子を文武天皇に嫁がせ、その子の聖武天皇にも娘の光明子を皇后とし、藤原氏興隆の基礎を作りました。その後、藤原良房は、臣下として初めて摂政となり、藤原道長は3人の娘を三代続けて皇后とし、道長・頼道の頃に摂関政治の最盛期を迎えます。写真は、紫式部日記絵巻の藤原道長です。

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氏寺興福寺、氏社春日社、私学勧学院を統括し、平安末期に摂関家は近衛家と九条家に二分、鎌倉時代に二条と一条、鷹司家に分かれ五摂家となり、以降五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)から摂政・関白が立てられ江戸末期に到ります。五摂家に次ぐ上流公家の多くも藤原氏であり、明治になって上流公家の多くは華族に五摂家は公爵に列せられ、永く繁栄を続けてきました。

蘇我氏

 645年の乙巳の変(いっしのへん)で滅ぼされた蘇我蝦夷・入鹿親子の家系を遡ると、蘇我韓子(からこ)―高麗(こま)―稲目―馬子―蝦夷―入鹿となります。歴史書では断定されていないのですが、名前からはどう見ても渡来人です。蝦夷という蔑称が付けられているので、名前を改ざんされたか、東国との強いつながりが有ったと推定されます。蘇我馬子は第32代崇峻天皇を592年に暗殺し政治権力を握り、第33代推古天皇摂政の聖徳太子と協力して政治を行いました。蘇我馬子は仏教の受容に反対する物部守屋を587年に滅ぼし、日本で初めて本格的寺院である法興寺(飛鳥寺、後に平城京に移設され元興寺となる)を596年に創建し、石舞台古墳に埋葬されました。石舞台古墳は、奈良県明日香村に有り、最大77トンの石積の玄室が露出していて、この巨大空間の玄室に入る事ができます。飛鳥寺の飛鳥大仏は創建当初の場所にある安居院(あんごういん)に安置され、永い歴史を刻んでいます。写真は、安居院の傍にある蘇我入鹿の首塚です。

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 蘇我稲目の娘を第29代欽明天皇の妃として以降、蘇我氏は一族の娘を天皇家に嫁がせ深い関係を築きました。馬子は甥の崇峻天皇を暗殺し、両親の祖母が共に稲目の娘であり、妃が馬子の娘である聖徳太子の王子を入鹿が滅ぼしました。せっかく天皇家と強固な姻戚関係を結びながら、自ら破滅への道に進んで行ったことになります。

十七条の憲法

 聖徳太子の制定した十七条憲法は、604年に日本最古の文書の形で示された法です。第一条は、和を大切にして争わぬ事。皆で相談すればうまくいく。第二条は、仏教を敬い、第三条は天皇の命令に従うことと続き、最後の十七条ではものごとは皆で相談して決めなさい。で結ばれています。最初と最後の条に、話し合いが重要である事が強調されています。この時代にすでに何事も話し合いで決めるという日本の和の精神が出来あがっていたのです。

2013年9月 1日 (日)

中国の歴史書などに残された古代日本

 水稲耕作を基礎とする弥生時代には、食料採取から食料生産の段階へと入っていきました。農耕社会が成立すると共に、蓄積された余剰生産物を巡って争いが始まり、縄文時代には見られなかった石製や金属製の武器や防御的施設を備えた集落が出現し、強力な集落は周辺の集落を統合し小国が生まれていきます。

この小国分立の状況は、中国の歴史を記した最初の正史「漢書」地理志に残されています。「倭人」社会は百余国に分かれ、前漢が支配していた朝鮮半島に定期的に使者を送っていたといいます。三番目の正史「後漢書」東夷伝には、紀元57年に九州の小国である奴国が後漢の光武帝から金印「漢委奴国王」を受けた事が記されています。紀元三世紀に編さんされた「三国志」の「魏志」倭人伝によると、邪馬台国の女王卑弥呼により小国の連合が生まれています。

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朝鮮半島の鉄資源確保のため任那と密接な関係を持っていた倭国が、400年に高句麗と戦った事が好太王碑の碑文(中国吉林省集安市、北朝鮮との国境の村)に記されています。

「宋書」倭国伝には、5世紀から倭の五王があいついで中国の南朝に朝貢し、478年の倭王武(雄略天皇)の上表文の内容として、大和政権の国内統一がなされた事が記されています。

中国の中華思想では、中国が世界の中心であり異民族を徳により従えようとしていました。周囲は野蛮な地域で、日本を小さいの意味の「倭」、「日巫女」の事を「卑弥呼」、「大和国」を「邪馬台国」と卑しい文字で表したのではないでしょうか。

また、不老不死を願う神仙思想に強くひかれた秦の始皇帝は、徐福に3千人の若い男女を預け、五穀の種子、様々な工人と共に東方の地に渡航しその地の王になり中国には戻らなかったと、司馬遷の史記に書かれており、日本の各地に徐福伝説が残されています。徐福は紀元前200年頃の渡来人でした。中国での飲み会では、日本人の祖先は徐福であると良く言われ、韓国に旅行に行くと天皇の祖先は朝鮮人だと言われます。あながち間違いとも言えないような気がします。

坂上田村麻呂ゆかりのお寺

 坂上田村麻呂は、征夷大将軍となり東北の蝦夷(えみし)を制圧した平安時代初期の武将です。田村麻呂は、蝦夷との戦いの最中の798年に清水寺を創建しました。福井県の明通寺は806年に田村麻呂が創建し、現在の本堂と三重塔は国宝で鎌倉時代の再建です。807年に田村麻呂の創建と伝えられる松島の五大堂(重文)は、後に慈覚大師が五大明王を安置したことから五大堂と呼ばれています。現在の建物は1604年に伊達政宗が再建したもので、東北地方最古の桃山建築で日本三景松島のシンボル的存在です。写真は、松島の五大堂です。

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田村麻呂創建と伝えられる寺社は、東北地方を中心に数多く残されており、神仏の加護で蝦夷征伐や鬼退治を果たした感謝の気持ちによりそれらの寺社を建立したと伝承されています。

聖徳太子ゆかりのお寺

 聖徳太子ゆかりの寺としては、奈良の太子創建の法隆寺が最も有名です。世界最古の木造建築で飛鳥様式の金堂・五重塔を中心とする西院と、天平様式の夢殿を中心とする東院に分かれていて、多くの国宝建築や美術品を見る事ができます。

 法隆寺東院に隣接して聖徳太子が母の菩提を弔うために建立した中宮寺があります。国宝の弥勒菩薩半跏像は、実に美しい中性的仏像で、アルカイックスマイル(古典的微笑)をたたえています。間近でじっくりと見学する事ができ、幸せな気分になれます。

 法隆寺の近くには、聖徳太子の嫡男山背大兄王が母の邸宅を寺にした法起寺があり、国宝三重塔は現存する最古の三重塔です。

 京都にある広隆寺は、聖徳太子の信頼厚い渡来人の秦氏が太子供養のために建立した寺で、太子より授かった弥勒菩薩半跏思惟像を祀っています。この仏像が国宝第一号に指定されたもので、霊宝殿で他の多くの素晴らしい仏像と共に拝観する事が出来ます。

 兵庫県にある鶴林寺(かくりんじ)は、奈良の法隆寺に対し西の法隆寺とも呼ばれており、太子が秦氏に命じて精舎を建てたのが始まりとされています。平安時代末期の1112年建立の国宝太子堂は、桧皮葺(ひわだぶき)の優雅な建物で身飽きない美しい姿です。

 大阪にある日本最初の官寺である四天王寺は、聖徳太子が物部氏との戦いに戦勝祈願し勝利したため593年に建立されました。当時の建築物は残っていませんが、四天王寺式の伽藍配置は復元されており、文化財の一部を宝物館で拝観する事ができます。

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 聖徳太子は飛鳥の橘寺で574年に生まれ、大阪府太子町にある叡福寺には、太子と母、妃が眠る廟があります。

思いがけず見所の多い寺院

①安倍文殊院(奈良県桜井駅バス7分歩すぐ)

 2013年2月に文殊菩薩と侍者像の計5像が国宝に指定されました。いずれも鎌倉時代の快慶の作で、本尊の文殊菩薩騎獅像は高さ7mで整った素晴らしいお顔です。知恵の仏様は「頭からのぼけ封じ」として昔から信仰されてきました。ぼけ封じのグッズやお酒が効きそうです。

大化の改新時に安部氏の氏寺として建立され、奈良時代の遣唐使・安倍仲麻呂や平安時代の大陰陽師・安倍晴明が有名で、陰陽道総本家です。平成24年の安倍晋三総理大臣寄進の灯籠がありました。

新しく出来た池に浮かぶお堂の回路を回り七難を取り除く「七参り」や玄関に貼る魔除けのお札(1000円)は、効果大いにありそうで風水に凝っている妻は大喜びです。また、本堂前の「文殊院西古墳」は、本山の創建者のお墓で特別史跡に指定されており、内部の切り石の精巧な合わせには驚かされます。

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②道成寺(和歌山県JR紀伊本線道成寺駅歩7分)

 和歌山県最古のお寺で701年に創建されました。本堂後ろにある劫思惟阿弥陀如来像(ごこうしゆい)は、髪の毛がアフロ状に盛り上がった江戸時代のユーモラスな像です。本堂左の宝仏殿では、国宝の千手観音菩薩と両脇侍など多くの仏像を拝観でき、「安珍と清姫の物語」の絵解き説法が行われています。僧安珍に清姫が恋の炎を燃やし、裏切られたと知るや大蛇となって安珍を追い、最後には道成寺の鐘の中に逃げた安珍を焼き殺すという恐ろしいストーカー殺人物語りです。絵巻物を使って行われるこの絵解き説法は、非常に興味深いものでしたが、多くの参拝客は拝観料600円を払わずに本堂でのお参りだけで帰っていました。説明してくれたお坊さんには申し訳なかったのですが、一人だけで説明を楽しく聞く事ができました。

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