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2013年9月 1日 (日)

中国の歴史書などに残された古代日本

 水稲耕作を基礎とする弥生時代には、食料採取から食料生産の段階へと入っていきました。農耕社会が成立すると共に、蓄積された余剰生産物を巡って争いが始まり、縄文時代には見られなかった石製や金属製の武器や防御的施設を備えた集落が出現し、強力な集落は周辺の集落を統合し小国が生まれていきます。

この小国分立の状況は、中国の歴史を記した最初の正史「漢書」地理志に残されています。「倭人」社会は百余国に分かれ、前漢が支配していた朝鮮半島に定期的に使者を送っていたといいます。三番目の正史「後漢書」東夷伝には、紀元57年に九州の小国である奴国が後漢の光武帝から金印「漢委奴国王」を受けた事が記されています。紀元三世紀に編さんされた「三国志」の「魏志」倭人伝によると、邪馬台国の女王卑弥呼により小国の連合が生まれています。

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朝鮮半島の鉄資源確保のため任那と密接な関係を持っていた倭国が、400年に高句麗と戦った事が好太王碑の碑文(中国吉林省集安市、北朝鮮との国境の村)に記されています。

「宋書」倭国伝には、5世紀から倭の五王があいついで中国の南朝に朝貢し、478年の倭王武(雄略天皇)の上表文の内容として、大和政権の国内統一がなされた事が記されています。

中国の中華思想では、中国が世界の中心であり異民族を徳により従えようとしていました。周囲は野蛮な地域で、日本を小さいの意味の「倭」、「日巫女」の事を「卑弥呼」、「大和国」を「邪馬台国」と卑しい文字で表したのではないでしょうか。

また、不老不死を願う神仙思想に強くひかれた秦の始皇帝は、徐福に3千人の若い男女を預け、五穀の種子、様々な工人と共に東方の地に渡航しその地の王になり中国には戻らなかったと、司馬遷の史記に書かれており、日本の各地に徐福伝説が残されています。徐福は紀元前200年頃の渡来人でした。中国での飲み会では、日本人の祖先は徐福であると良く言われ、韓国に旅行に行くと天皇の祖先は朝鮮人だと言われます。あながち間違いとも言えないような気がします。

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